puhopuho’s diary

主に読書管理として。

「クソどうでもいい」東京オリンピック

 

病院でいつもの薬をもらうため、受付前の椅子にボーっと座っていると、テレビのワイドショーで東京オリンピックの新種目候補について色々紹介されていた。それで、ふと以前に後輩とした会話を思い出した。

 

確か先月のことだったと思うのだが、「国立競技場とかエンブレムとか、ホント今大変な騒ぎになってるね~」と世間話を向けたところ、後輩は「はぁ。『誰でも興味あって当然』みたいな感じがスゴイっすね」と返してきた。世間の喧騒具合についてのコメントなのか、それともその話題をそいつに振った俺へのコメントなのか、あるいはその両方なのか判断がつかず、曖昧な顔を作るしかなかった。その、儀礼的な関心を寄せる気が一切ない完全な無関心ぶりを発揮する警備会社勤務三年目の後輩を見て、ああ、前にもこんなことこいつに言われたな、と思ったのだった。

 

似た様な反応をされることは、別にその後輩の他にもよくある。だいたいは単にこっちが振る話題を間違えた時なのだが、例えば非常勤先でも看護の学生に社会学っぽい話をむけると、無関心な態度だけでなく「知らんし~」とハッキリ声に出す学生もいた。オタクの世間に対する無関心さとか、或いは反知性主義とかいった大げさな話ではない。というか、自分だって知らないものや興味ないことに対する態度というのは彼(女)らとたいした違いはないはずだ。

 むしろ、なぜ社会学(者の卵)である自分を意識している時に、そういう反応をされてしまうと、何か違和感を覚える自分がいるのか。そのことを考えてしまう自分がいた。

 

東京オリンピックにしてみれば、実は自分自身も対して興味があるわけではない。というか、ハッキリ言ってスポーツイベントそのものに対して一ミリも興味が持てない。国立競技場にしろエンブレムにしろ、今回はデザインをめぐる問題がちょうど(研究領域の)近場で論じられているところだったので、たまたまTVや新聞やツイッターでの記事や言動が自分の注意を引きやすかった、というのはある。

 

ただ、別にそういうことではないのだろう。後輩のコメントが覗かせているのは世間の同調圧力に対する違和であり、さらには「そんな話題を俺に降ってくれるな」という軽い拒否感のこもったニュアンスであったと思う。

 

しかし、東京でオリンピックがある、という事実の予定は、これから様々な社会の領域へと正負を問わず様々な影響を波及させるだろう。その都市の大規模な再編成によって、たとえば後輩が大好きなゲーム関連のイベントが開催されなくなるといったような。このとき、後輩自身に興味があるナシにかかわらず、東京オリンピックという社会的イベントは否応なく彼のプライベートな趣味の領域へと大きく関わっていくだろう。

 そのとき彼は「『誰でも興味あって当然』みたいな感じがスゴイ」といった、まるで自分には何も関係がないというような突き放した態度をとれるかどうか。

 むしろ、野球中継が長引いてアニメの放送時間が変わったり、ラジオの番組がとんだりしてブチギレる人々のように、興味ないことが関係を持ってくると苛立ってしまうだろう。

 

 結局、問題は「興味がある/ない」という区別がそのまま「関係ある/ない」という区別にそのまま重なるわけではない、というのことなのだろうか。しかもそれに関係がある場合、興味ないのに関係ある、という「めんどくさい」事態が想定される。さらにその関係が自身にリスクを伴う場合、それはハッキリと政治の問題となり、趣味と政治が、プライベートと社会が切り結ばれることになる。

 

・・・そういったかたちで、社会学の思考の空間が開かれていくような気がしている。